保存情報第48回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 海鼠壁の残る街−松崎 藤田淑子/名古屋文化短期大学

「なまこ壁通り」に面する近藤家の外観

関家の持ち送りの漆喰彫刻。外側に笹竹、内部に阿吽の虎が見られる。
■紹介者コメント                      
 「海鼠壁」は火事の延焼防止のための構法で、日本各地に独自の意匠として発達した。中でも西伊豆の松崎に、強い季節風と波浪に立ち向かう海鼠壁が多く見られるのは、当時、海運業、木材集散地、初繭相場として栄え、普請へのゆとりがあったからであろうか。
 年々少なくなる海鼠壁に松崎町は文化財保護審議会を設置。2002(平成14)年9月発行の調査報告書によると、調査の結果、その数209件を数えるという。この地方特有の軒下まで全体を海鼠壁で被っている外壁を見て、最盛期の雄大な海を背景にした当時の景観を思うと、明治初期の呉服屋「中瀬邸」にも見られるこの町の美意識に心を打たれる。
 これには何といっても鏝絵で知られる入江長八の存在が大きい。町の活性化として建設された石山修武氏設計の長八美術館を訪れれば、狩野派に学び、その腕を各所に披露した左官芸術を知ることができる。海鼠壁は、平瓦の目地を漆喰で海鼠のように盛り上げていく意匠であるが、彼は漆喰を塗った上に鏝で風景や肖像を描き出し、華麗な色彩を施した。
 こうした左官技術を朽ちかけた土蔵の持送りに見つけ、その意匠から、あの大漁を祝う男の「万祝」や江戸の火消しの「半纏」を思い出さずにはいられなかった。豊かさを建物に表現した力強さの中に、魔除けとはいえ、粋な男の姿勢を建物に施したこの町の旦那衆と棟梁、それとお互い競い合ったであろう左官職人の遺したものが、今ではほんの一部にしか見られないのは残念でならない。 
参考文献@「海鼠壁のある建物(松崎町'海鼠壁調査報告書〕」 (2002年9月30日)
      A「日本の家2−中部」藤井恵介監修(講談社/2004年5月28日刊)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 味岡山香積院 鈴木達也 /辰巳設計

味岡山香積院

尾張名所図絵に描かれた香積院
■紹介者コメント                   
 この寺は八一事の景勝地にあり、徳川綱吉が治世の元禄の頃、1687(貞享4〕年、名占屋の豪商味岡次郎九郎の亡き一人娘を弔うため建立された。総門には二体の地蔵が並び、一体は子どもを抱き、もう一体の足元には14体の小さな地蔵が配されている。子を思う気持ちが、児童福祉施設をこの辺りに集めたのかもしれない。
 禅宗(曹洞宗)の寺で開山の寂元大和尚は、尾張藩主光友公の招きを受け、名古屋の万松寺や大光院を復興した高僧、元禄2年に寺号'を香積院と改め、尾張名古屋の地に禅風を高めた。
 龍門と呼ぱれる川形の閉□部と両側に火燈窓を配、自然木を多用したつくりの門に特色がある。江戸時代の尾張名所図絵にも描かれている心象風景が現在もそのまま存在していることは希少価値であり素晴らしい。われわれ設計者も、設計した作品がいつまでも歴史と心の故郷として残るような、都市景観を持つ仕事にしたいと常々思っている。
 境内には、市指定の保存樹「やまもも」の大木や名古屋でもっとも早く開花する前庭の桜、地租改正反対運動の小塚鉞助の碑などもある。大いに栄えた4世雲臥大和尚の時代には、東方の景勝地に般若台を創設。図絵に「安永年中香積院前住雲臥和尚の開きし所にして味岡山をさる事三丁余り。景勝地にして騒人春秋の山行杖をとどめざるはなし」と記されている。雲臥大和尚は、丹羽嘉言・菅江真澄とともに書道や和歌・漢詩に親しんだ文人であり、学僧でもある。
 川名山−般若台コースとして散策するのにも良い所であり、名所図絵の挿し絵の建物と現在の景観ポイントが変わっていないのがうれしい。