JIA東海支部の半世紀C
職能団体か、事業者団体か
税田公道(終身正会員)
「建築設計監理業法 田中一(参)私案」 反対のための緊急臨時大会開催
 1968(昭和43)年全事連提唱の「建築設計監理業法」(案)を議員立法化する動きが始まったが、それに対する協会の反対もあって、その具体化は見られなかった。1972(昭和47)年に入ると田中一参議院議員の下でその法案を議員提案で国会に提出すべく準備し、法制局においても法律上の立場からの検討が始まった。4月、その「業法」(案)の全文が発表され、同年、通常国会に提案されるとの報道がなされるに及び、協会は5月9日、「建築家の職能の確立に関する要望書−田中私案に対する意見」を衆・参両建設委員会委員、各党建設関係委員会委員、関係官公庁担当官、報道関係者等に送付し、5月12日、協会臨時大会を開催して大会宣言を採択し、5月24日、「建築設計監理業法 田中一(参)私案に対する反対宣言文」を全国会議員、関係官公庁担当官、報道関係者等に送付した。
大会宣言
 このたび参議院議員田中一氏によって提案された「建築設計監理業法案」(いわゆる田中私案)に対して、われわれは強く反対する。この私案は、建築家の業務が自由と独立の立場で保持すべき公益性を無視して、ただ単にそれを営利業として法的に定着させ、建築家の職能を永久に歪曲せしめようとするものであり、同私案がもし立法化されるようなことがあれば、われわれがこれまで主張し続けてきた建築家の真の職能法としての「建築設計監理業務法案」の実現を更に困難にするばかりでなく、わが国における建築文化の健全な発展を阻害することとなる。われわれはここに同法案に対して絶対反対の意思を表明すると共に、われわれの初志を貫徹すべくあらゆる努力を重ねていく決意をもつことを宣言する。 昭和47年5月12日 社団法人日本建築家協会緊急臨時大会
「田中私案」提出見合わせる
 建築家協会の絶対反対の意思表明を受けて、6月16日、建築関係5団体の会長会議の席上に田中一氏も出席し、同私案の議員立法も今回は見合わせる旨の発言があった。
資料 『JAAニュース』NO.337,339,340,341    機関誌『建築家』73秋号P41-51
列島改造=土地ブーム
 田中角栄氏の「日本列島改造論」が発表され、1972(昭和47)年7月に第一次田中角栄内閣が成立した。同年から翌年にかけ「列島改造=土地ブーム」となり、建築着工総面積、RC造、SRC造及びS造床面積、建設用普通鋼鉄材生産量等が戦後最高を記録した。また、1971(昭和46)年度の技能労働力需給状況が発表され、建設業の不足数は24万1,700人と報告された。
学会の『近代日本建築学発達史』の中に 「12編 建築家の職能」を設ける
 1972(昭和47)年10月20日、日本建築学会から2,000頁を超える『近代日本建築学発達史』(丸善)が発刊されたが、その「発達史委員会」の中に「職能分科会」(主査:村松貞次郎)が設けられ、そこに当時、建築家協会事務局にあった藤井正一郎、白井千賀子、菅原定三が参加し(関西からは、浦辺鎮太郎、坂本勝比古、松井昭光)、村松貞次郎氏とともに200頁を超える以下のような「12編 建築家の職能」の執筆及び資料収集を行った。
「12編 建築家の職能」
1章 総説 日本における建築家の職能
 1-1 近代以前の建築家
 1-2 いわゆる建築家の発生前後
 1-3 建築家の組織、団体の発生と変遷
 1-4 建築士法の制定まで
 1-5 そのほかの職能確立運動
 1-6 諸外国との比較
2章 建築家の誕生と建築設計事務所の創立
 2-1 建築家の誕生とその歴史的条件
 2-2 建築設計事務所の設立とその背景
 2-3 その日本的特質
 2-4 報酬規定・料率などの提案
3章 建築家の組織
 3-1 組織団体の変遷
 3-2 各組織団体の設立事情とその背景
 3-3 日本建築学会・日本建築士会の目指したもの
4章 戦前における建築士法制定運動
 4-1 戦前における建築士法制定運動と日本建築士会
 4-2 「建築士法」案に対する賛否の意見
 4-3 「建築士法」案の曲折と裏面の苦心
 4-4 戦前における制定運動の終焉
5章 建築士法の制定まで(戦後)
 5-1 日本建築士会の建築士法制定運動再開
 5-2 「建築法規調査委員会」戦災復興院のアプローチ
 5-3 四会連合委員会による「建築士法」案のまとめ
 5-4 建築士法の設立とその後
6章 関西における建築家の職能
 6-1 関西建築界のあゆみ
 6-2 民間建築事務所の形成とその活動
 6-3 建築家の社会的活動
 6-4 組織建築家の形成とその活動
 6-5 関西における建築家の性格とその職能

資料 日本建築学会『近代日本建築学発達史』(丸善刊)
第5回大会
期日:1974(昭和49)年10月2日
場所:晴山ホテル(軽井沢町)
統一テーマ:建築家の業務と責任
資料 機関誌『建築家』75春号
建築設計監理業務法(案)「骨子」の 承認
 1967(昭和42)年9月「建築設計監理業務法(案)」を発表して以来、他にも建築設計監理業務に関する立法化および建築士法改正の動きも種種あって、その状況の中で建築家職能法としての「建築設計監理業務法(案)」を積極的に推進すべく「職能法制定推進本部」を設置するとともに、かつて発表した「業務法(案)」を新たな角度から見直す作業を行ってきたが、1974(昭和49)年11月20日の臨時総会においてその「骨子」について会員の承認を得た。
1975(昭和50)年 「公取問題」国会の場へ 参議院予算委員会にて
 1975(昭和50)年3月5日参議院予算委員会において、藤田進議員(社会党)が、東京都営高層住宅滝野川団地設計入札および福岡県八女市のコンペ問題を取り上げ、協会が「談合を守らなかったということで懲戒処分にしている」問題について、高橋俊英公正取引委員会委員長の意見を求めたのに対して「建築士は独占禁止法による事業者であり、したがって建築家協会は事業者団体であると認定され、独占禁止法違反の疑いがあるので審査を開始する」との発言があった。
建築家協会の抗議
 前記、参議院予算委員会での質疑応答の事実を知った建築家協会は、公取問題対策特別委員会(委員長・横山不学氏、のち円堂政嘉氏に交替)を設置し、3月5日付けをもって以下のような「参議院予算委員会における高橋公取委員長答弁に対する声明」を発表するとともに、藤田進参議院議員および成田知巳社会党委員長あてに、いつなりとも問題の本質等についてご説明に伺う旨付け加えた。  建築家協会は即日本件についての声明を発表し(内容は「日本の建築家職能の軌跡」P210を参照)、同時に国際建築家連合(UIA)へ提訴、国内には「建築家は事業者ではない」を発表した。
「全事連」の社団法人化 −建築家協会と対立関係へ 日本建築設計監理協会連合会設立
 建築設計監理を専業とする建築設計事務所の各都道府県における団体は従来からいくつか存在していた(茨城、山梨、静岡、大阪、滋賀、奈良、兵庫)が、1975(昭和50)年に入ると、東京、千葉、京都、和歌山、岡山にそれぞれ建築設計監理協会が設立されるに及んで、同年11月18日、それら単位会の全国組織である日本建築設計監理協会連合会(設監連)を設立すべく、その設立総会が開催され初代会長に松田軍平氏を選出した。ここに「設監連」の活動が始まるが、翌年3月より機関誌『設計監理』が発刊された。なお、設立当初は、12単位会があったが、1978(昭和53)年までにさらに6単位会(北海道、神奈川、山形、山口、長野、九州)が設立されて加盟し、計18単位会となったが、愛知県でも設監協会設立の動きが始まった。この頃になって、その運動の当時の中心的なリーダーであった広瀬一良、長谷部利夫、五十嵐昇の3名に対して愛知県建築士事務所協会から逆に事務所協会への参加加盟の働きかけが執拗に始まった。3氏は県内の両団体から同時に団体の設立と他方から入会を働きかけられて昔話での平重盛がなげいた「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」の窮地に陥った。そこで3氏は建築家たるの信念を貫徹するために、愛知設監の設立を先延ばしにして全国の設監連の設立には声援を送りつつ地元愛知は一歩遅れていこうと判断した。
 当然、中央からは要人が多く来名して、その判断は弱腰であるとの説得がなされたが愛知は結果として動かなかった。
 設監連設立に5年遅れて愛知設監は設監連合会に加盟することになるが、前記県内2団体(愛知設監と愛知の事務所協会)との間に心配された摩擦や怨念めいた争いごともなく今日にいたっていることはご承知の通りである。
 その後、愛知設監は伏見通りにある御園座の地階に文化活動の拠点を置いて活発な文化活動を開始した。
 「建築という概念は物理的に、工学的に建てるもの」にとどまらず、生命のあるものが快適に生存可能で、とくに人間でいえば文明と文化に接しながら周囲の環境に留意し調和してこの世に存在するものであるはずだ。
第6回大会開催
  期間:1975(昭和50)年10月23日〜25日
 場所:都ホテル(博多)
 統一テーマ:地域社会における建築家の活動
 資料 「協会ニュース」NO.419  
「全事連」が公正取引委員会に「事業者団体」として届け出る。  建築家協会は公正取引委員会からの「警告書」に対して拒否回答。