保存情報 第102回
登録有形文化財 雲興寺鐘楼 山上薫/山上薫建築事務所
西側遠景 西側全景 南側見上げ
■紹介者コメント
 雲興寺は、瀬戸市内東部、赤津にあり、東海自然歩道、猿投山コースの中継点でもある。室町期の至徳元年(1384)天鷹禅師によって開創され、600年の歴史を有する曹洞宗の古刹で、末寺は30カ寺を数える。名古屋大須の万松寺もかつてはこの雲興寺を本寺としていた(1723年に離末)。応永10年(1403)、七堂伽藍が落成した。
 鐘楼は当初、天和3年(1683)に建立されたが、腐朽が進み、文化7年(1810)再建された。これが現存しているものである。明治24年(1891)濃尾大地震での被害記録では「鐘楼堂石垣四方顛覆ス、シカモ鐘楼堂西ノ方エ三寸余移ル………然レドモ瓦類ハ本堂、玄関、鐘楼堂・土蔵二ケ所更に瓦落チズ」とあり、倒壊などの大きな被害はなかったようである。平成17年(2005)に登録有形文化財に登録された。その解説文には、「境内中心部、本堂南にある。桁行2間、梁間2間の袴腰付鐘楼で、入母屋造、桟瓦葺きである。出組で縁を支え、軸部は円柱を立て、柱頭の外部に長押を廻し、二手先組物に中備を蟇股とする。棟札から年代等が明確で、地域における江戸後期の基準作のひとつである」と記されている。
 現住職の話では「老朽化して建物がねじれてきたが、修理には高額なお金がかかる。先代が安くできるということで鉄筋コンクリート造の鐘楼を、昭和51年(1962)に境内別敷地に建てた。しかし私は何とか古い鐘楼を残したいという思いがあり、苦慮していた。登録されたのを機に、寄付など資金の目処が立ち、解体修理して2009年完成した」とのことである。梵鐘は第二次世界大戦のとき供出したままであったが、今回新造された。瓦は本堂共、地元赤津焼の赤瓦である。修理された鐘楼はバランスも良く優美な姿で建っている。
   
所在地:瀬戸市白坂町131
構  造:木造2階建
建築面積:28㎡
建設年:文化7年(1810)
棟  梁:地元の藤井政清
登録番号:23-0209 2005.12.26原簿記載
参考資料:『尾張雲興寺史』大野栄人・横山住雄著、 
 1982年12月発行
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 渡邊山守綱寺本堂、鐘楼堂
           太鼓堂、山門
塚本隆典/塚本建築設計事務所
本堂 鐘楼堂 山門
■発掘者のコメント
 旧寺部領主渡邊家の菩提所で三代、治綱によって創建される。渡邊家は三河時代からの徳川家の家臣で、初代は半蔵守綱。徳川御三家設置のとき、尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属した。また玄々斉は十代規綱の実弟(前掲又日庵)。以下『豊田の文化財』による。
<本堂>
 見付7間(実長9間半)奥行10間(実長11間半)の主屋と正面に一間の向拝、西側後ろに一間幅の下屋。内陣部分は正保元年創設と思われるが、外陣部分は別の建物を移築した可能性がある。内陣の8枚の襖絵は、高さ192.5cm、幅161cmと大きく、金箔を下地に松に鳥を描いた見事なもの。欄間の透かし彫りも孔雀・鳳凰・獅子といった図柄で極彩色の荘厳なもので、伏見桃山城の軍議評定所の建物を拝領して建てたと伝えられている。
<鐘楼堂>
 入母屋造り、瓦葺の楼門型の鐘楼堂で、慶安元年(1648)2代重綱が梵鐘を寄進した際に建てられた。愛知県下でも年代が判明する鐘楼堂としては4番目に古い建築物。
<太鼓堂> 
 1間四方(実長)の宝形屋根に露盤宝珠を載せたつくりの小堂。建てられたのは江戸中期を下らない時期と考えられている。四方の壁には中央に格子の窓があり、内部は2階になっており、上層の梁に太鼓が吊り下げられている。
<山門>
 1間(1.8m)幅の瓦葺の薬医門。建てられたのは江戸中期を下らない時期と考えられている。
※薬医門とは、本柱の後方に控柱2本を建てて切妻屋根をかけた門をいう。
 近隣を散策しますと2軒ほど長屋門を見ることができます。


太鼓堂

参考文献:
『豊田の文化財』
(豊田市教育委員会)
所在地:豊田市寺部町2-27
(名鉄三河線越戸駅より徒歩24分)
豊田市指定文化財